第9回日本美術展覧会 〜彫刻部門〜

  • 2022.11.30 Wednesday
  • 21:57

JUGEMテーマ:展覧会

 

このブログは高尚なのだよ

 

第9回日本美術展覧会にいって参りましたレポートとなります。

ビジツゲイジツに全く縁もゆかりもない自分にとって日本美術展覧会いわゆる日展は耳にしたことはあっても実際に意識をしたことは初めてで、え?まだ9回しかやってないの?もしかして数十年に一回とか?それとも意外と新しいイベント?とか??だったのですが、当然とてつもなく歴史も意義も高い展覧会でした。

簡単にお教え差し上げると、明治40年に第1回が開催(当時は文部省美術展覧会)されてから実に百有余年続いてきた展覧会で、常に新しい時代に合わせ脱皮を重ね、平成26年の改組に伴い新第1回日展として改めて開催されたのです(と、公益社団法人日展様のHPに記載されています。はい)。

 

今回は時間が無く、本当は5部門(日本画、洋画、彫刻、工芸美術、書 全約3,000点)全てを一日かけて見たかったのですが叶わず、駆け足で本命である彫刻部門だけ見てきたのでした。それでも大満足だったので、全ての部門の作品を見て飽和酔いしたかった。

 

いつもながら、まったくビジツゲイジツにセンス無い自分の個人的趣味・無学・偏見で語る、印象に残った作品のレポートですので、識者の方は寛大なお心でよろしくお願いします。

 

「まつぼっくり」森田一成

自分の趣味から言うとあまり好みでは無いながら気になった作品。

今的感は感じられないんだけど、なんていうのかな。

まつぼっくりと言われればそんな感じだけど硬さよりも柔らかさ。

あと、子どもってこういう瞬間あるよねって思う。無邪気ゆえの無人格というか不気味とも無心とも。

 

「MACBETH」紺谷 武

空間に存在している異形に誰もが意識しざるを得ないと思う。

勝手な感想だけど。

枯れ木のような表現も含め、マクベスと知らなくても、その不合理かつアンビバレンツな悲劇性を意識してしまう、

存在が物語をそのまま体現しているような見事な作品。

 

「夢案内」諸井謙司

写真ではわかりづらいけど。でかいのよ。

でっかいパンタローネが夢案内してくれるって、もう悪夢じゃん。

いや悪夢みたないなわかりやすいものですらないかもしれん。

うつむいて、導くように背をかがめている様子から誘っているのは多分子ども。

いい人かも知れないけど、着いていくとやばそうだし、着いていかなければ目覚められないし。

とにかくやばいって子ども心に思いそう。それがもう悪夢。

 

「響き合う明日」中村優子

心が響き合っているのかな。明日に対しての希望を持つ人なのか。それとも希望を擬人化したものか。

響き合うことは心地良い。そのとおりこの作品からは何気ない心地よさを感じる。

弥勒菩薩のような少し唇が緩んだアルカイックスマイル。

荘厳というより身近を感じるのが素敵で見ていて飽きない。

 

「singing figure」宮坂慎司

多分本来の作者の意図とは違って、自分の性癖満載で良いと感じているんだけれど。

彫像で人体の部分が消失している表現がすごく好き。

見えないところに血の通いとか臭いとかをリアルに感じる。

その性癖から言えば、この作品は最強。

シン・ウルトラマンのザラブも好きよ。

 

「らぶ らぶ」境野里香

かわいいは無敵。

ぬこは少女が好きだし。

少女はぬこが好きだし。

鑑賞者は少女を好きになるし。

少女が好きなぬこも好きになるし。

らぶらぶの空気がかわいいに埋まってる

椅子が鉄製なんだけど木ならなおさら良かった。

石膏作品なので鉄じゃないと重み支えられないのかな。

スパッツ選択したのがなおさらよき。

 

「ウサギを抱く少女」植田 努

ストレート勝負なのが潔いかと。

ウサギがちょっと寓話感ある存在。

一方、おっかなびっくり抱いている少女の表情は愛しさと命を抱く怖さが浮かんでる。

半袖、クロップドなパンツに裸足というのが今風なのもよき。

一番はストレートな勝負なところ。清い。

 

「hip-hop」中山邦彦

今を瞬間として特異点にしたとき、どんな表現があるんだろうというのが自分の興味というか見たいもので。

そういった意味ではマスクをした彫像とかあったら、これは!と思ったと思うんだけど、あざとすぎるのかさすがに無かった。

かといって、こうじゃないんだよな、と思ったのが申し訳ないがこの作品。

今を切り取ったのだろうけれど、切り取った瞬間に過去に移行していくのが図らずも(あるいは意図したんでしょうか)強く感じられてしまった。

しかし、こうした作品が未来において大切にされるのもまた想像できるところ。

 

「街角」新澤博志

自分にとって今の瞬間を特異点とするって、こういう作品。

展覧会場でふと視線を感じると彼女だった。

まさしく今の「街角」が瞬間そこに現れた。

体型も魅力的だし、服装もおしゃれで上品。

彫像は時間を超えて普遍的に存在するため裸体が多いのだと思うのだけれど、自分的には「今」だから表現出来るものをみたい(例え、数年後に古びて見えても。って鑑賞者のエゴそのものだけれど)。

 

「naturally」宮本久子

と、裸体がどうずらと言っておきながらこの作品。

裸体の女性像って多いのだけれど、自分にはあまり響かず。すごいな、とか、手間、お金、時間がかかっているなぁとは思うけど、どうしても公園とか市民館とかに立ってる「明日への希望」みたいな、どうでもいい(これは相当失礼な言い方だけれど、そう思っているのが事実)のと同格に捉えている。

その中で、この作品は題名の通りまさに自然。なんか理由はわからないけれど裸でそこに立たされた感が満載している。

この顔ですよ。敢えて言えば仏頂面。

体系的にも表情的にもキレイに見せようとか芸術的存在になろうとか感じていない。

まさに「自然」。

 

「アルテミスとアポロン〜隣の星は何色〜」

長いけどちょっと興味をそそる題名。

アルテミスとアポロンといえば当然兄弟だし、月と太陽の偶像。

にしてはアポロンいないじゃん。

アポロンいました。

てか、アポロン?この二人って双子でなかったけ。

寓話はともかく、この作品、彫像としてのサービス精神に溢れてる。

まずは後ろに回らないとアポロンみつからない設定。

アルテミスが全体的に三日月のような印象。同時に狩猟の神でありながら勇ましくも無くむしろ静かに落下していくような、静的なスタイル。

そして何よりもアルテミスの服装がまったく現代。

こういう作品ってずっと見てしまう。

片膝を抱えて静逸な表情。

隣の星って何なんだろう。

穿ったことを考えると、処女性の象徴であるアルテミスが現代で恋をして、天空から追放される様かとも思える。

つまり隣の星とは人間。

色々と想像がはかどるのが面白い作品。

 

「泡沫の躯」坂本 健

繰り返すようだけれど、人体の部分が消失している表現が好き(性癖)。

サモトラケのニケとか大好き(本物みたこと無いけど)。

そうした作品群の中で、この作品が性癖に刺さった。

正面から見る印象と横からの印象が違うのが魅力。

ぐっと腰が絞られて魅力的な女性像になっている。

でありながら題名が「泡沫の躯」。泡沫だし、体じゃなくて躯だし。

諦めて、惜しんで、萎えて、命と血が通うことを意識的に否定して、ストラクチャであると信じ込んで。

人魚のような、そんな苦悩と悲しみを感じた、作品名と題材がリンクした印象を持った。

 

「ルームウェア」酒井 華

もっとも『今』を感じた作品。

今回の日展の全作品中唯一(だと思う)、体型がまったくわからない!

もっともリラックスするはずの場所である自分の部屋で、芸術的物語では裸で過ごす訳だけれど、実際はもっともリラックスした格好となる。

それなのになぜか不安定なやたらやわらかいクッションに立って半眼。

この内面性の具現化と生活感の両立ってけっこうすごくない?

怒ってる?とも思うし、ぼーっとしてるだけとも思う。

なんか女子の捉えどころの無さみたいな、どうすりゃいいのよ俺みたいな感じもある。

なんでクッションの上乗ってるのよ。何が言いたいの?みたいな。

でも、そんな一方で素の彼女の可愛さも溢れてる。

髪型も違和感ないし、もう本当にどこにでもいる普通のこ。

あまり技術的なことをいうのは知識も無いから避けてるんだけど、服の柔らかさ、クッションの沈み加減、服の下にあるであろう体躯の現実感、すべてが一体となって瞬間を切り取ってる。

自分にとってはまさに理想を具現化してくれた作品。見飽きない。でも自分の部屋に置いたら、いつ怒られるか想定できないヒヤヒヤ気分が抜けなそう。

 

「流露」永江智尚

一瞥して「少佐!!」とは誰もが思うところだと思う。

そう一度思うと少佐にしか見えないし、作者もインスパイアされたのではないかと勝手に思うのだけれど、それをここまでの存在として昇華したのは驚嘆しか無い(勝手な言い分)。

筋肉質の彫像は数あれど、女性をモデルにした作品を見たのはこれが始めて。

浅学ゆえかも知れないけれど珍しいのでは無いかしらん。

素直にかっこいいし、魅力的。

それ以上にパラダイムシフトとなる作品とも感じた。女性としてのシンボルを保ちながら力強さは男性彫像にヒケを取らず、そして魅力的。決してアンドロギュヌスではなく女性としての存在、もとい女性という存在の魅力に満ちている。

以前から、男性の裸体像には性器が表現されるのに、なぜ女性の裸体像ではまるで否定するように削り取られているのだろうと思っていた。性の人形化が女性彫像の規範なんだろうと素人である自分でもわかっていた。

この作品はこうしたスタンダードなハードルまで軽々と飛び越えている。

そして見よ!この背筋。抱きしめられたい。ギリギリと。

 

「悲しみ」井上 智

「悲しみ」って作品名はありきたりと思っていたけど、こういう可能性があるからどんなことも侮ってはいけない。

作品名には余計な修飾も無く、シンプルそのもの。恐れず言えば陳腐化していると感じさせる恐れもある(自分も作品名だけなら陳腐と思う)。

作品がここまでケレン味の瀬戸際、崖っぷちまで狙ってきていれば、シンプルな作品名の方がむしろ全体を調整して見事に作品を着飾らせる。

わかりやすく言えば、この作品に「うらみ」って命名したら、まったく違うそれこそケレン味そのものの存在になってしまったかも。

また、陳腐化するかと思えた「悲しみ」も、この作品の名前だとすると「やばみ」「つらみ」のようなライム感さえある。

無垢なる白いあくたから立ち上ってくる色と形のあるものが「悲しみ」だとしたら、それはまだ意識下にあって顕在していない思いなのかもしれない。

そして、この作品を鑑賞する上で大切なことは、前から見ても後ろから見てもパンティラインがしっかりと視認できるところにある。仮にイチジクの葉が薄い布になったとしても歴然と人間の存在性を表す刻印であるならば原罪として受け止めるべきものなのだ。そうなのだ。

尻マニアにも大腿部マニアにも膝マニアにも、もちろん中二病の皆様にもしっかりと応えるこの存在感こそが、今を生きる作品だと、私おそれず申し上げます。

惜しむらくは、足首マニアとか足指マニアとか足指間マニアとか……

処理がしっかりされている全身と荒々しく彫られた頭髪が、無意識から表層に出でようとする「悲しみ」を体現しているようで、本当に素晴らしい。願わくばヘソが欲しかった。

いずれにせよ、ガンダムの産湯につかり、エヴァの乳を飲み、まどマギの洗礼を浴び、リコリコを胸に刻み、水星から来た魔女に思いを募らせる諸君にとって、間違いなく好きな作品のはず(我も)。

 

天地人ー散華ー 阿部鉄太郎

今回、日展に来たのもこの作品を直に見たかったからに他ならない。

この阿部鉄太郎という方、高知県に身を置き高知大学にて教鞭をとられているので、関東ではこういう機会が無ければ作品に直にお目にかかることが無い。

というより、コンスタンスに作品を発表し、積極的に出品され、実物を拝める機会をくれるのがなによりありがたい。

以前のエントリー「第51回日彫展」でもご紹介したが、この方の「YUKIONNA」と言う作品に目を奪われ、それまで古くさい物と記録されていた彫刻に対するメモリーをオーバーライトする経験を与えてくれた方なので、身近で(身近でも無い距離だが)見られるとあればぜひとも、時間は無かったけど、ぜひこの作品だけでもと。そんな気持ちで走り込んだ(って大げさに書いておく)。

この人の作品は伝統やコードを大切にしながらも、古くない。

なぜなら『かわいい』。もう一度書いておく『かわいい」。『かわいい』は正義である。大事なことなので4回言う「かわいい」は正義。

『かわいい』が、『萌え』が、『尊い』が、人の心を底根から揺さぶるのであれば、それが今の芸術であることを確信すべきだと思う。

アカデミックな領域においては、そうしたものを直接取り入れるのは時期尚早だというのであれば、そこにギリギリチャレンジする芸術家こそが過去と今と未来を繋ぎ止める宿命を負っているのではないか。

「悲しみ」についても同様の感情を覚えたところだけれど、この方の作品の方がよりダイレクトであり、より挑戦的だと思う。

いや、実のところ挑戦的だと思ってしまうところに、アカデミックなゲイジツのどこかに存在する老害が垣間見えてしまう。

欧米、日本とも近代の小説や書物には若かりし頃芸術作品に恋い焦がれてしまったという表現が散見される。

今の人達が恋い焦がれる3D表現の体現者を「フィギュア」という。

この「フィギュア」は数十年という技術的革新を経て好事家だけのものではなく、社会一般通念的に愛されるものになってきたではないか。これをポピュリズムといって一派一絡げに切り捨てるならばそもそも芸術ってなんなんよ。

阿部鉄太郎さんの作品は、そこに切り込もうとかあえて挑戦してやろうとかここでいっちょ有名になってやろうとかこんなものがみたくてしょうがないんでしょねねとか、そんなことはどうでもよくて、ただそこに「かわいい」のであって、故に逆説的になってしまうが挑戦的なのだと感じている。というかそう自分の中で整理がついた。

「天地人」というメインタイトルがいい。「天の時は、地の利に如かず。地の利は、人の和に如かず。」

もうね、オタク大喜びなわけじゃん。「人の和に如かず!!」って。

このかわいい女の子がね、そんな大意を内包しているそのドラマ性。

特にワインをテーマとした連作でもあるということで、すべての作品が整ったときの人の和とは如何に?というワクワク感に溢れている作品なわけです。

急に話しは変わるけど、この横腹から胸、そして脇から肩、二の腕を伝って肘に至る柔らかさ。

最高じゃん。

寄って見ちゃう

そしてサブタイトルの「散華」。

特攻とかの陰惨なイメージを持ちながら、どこか百合の終い香のような濃厚でいて高潔な淫靡さも感じさせる。

このタイトルをまさしく体現する、この作品。

まるで、消えゆく若き魂の脇にふと現れて、不思議そうに「なんで死んじゃうの?」ともいいたげな。

一方、死にゆくまだ幼い兵士はそこに安息を見出し、触れたく抱きしめたく手を伸ばすような、そんな空間が匂い立つ。

男にとって(男目線だけで申し訳ない。自分が男なので実感として)、女性に見下ろされるその時が快感で癒やしで幸福であれば、そこは大体唯一の居場所になるものだ。概ねの男は絶対そうだと思う。赤い彗星も絶対その手の男だ。

男は多分、一生そういう存在(男だろうが女だろうが、仮に人で無くとも)を求めて死んでいくのだと確信している。

また話しが変わるけれども、この人の彫刻は毛がイイ。

毛を彫ってやるぜ!って感じじゃ無くて、毛の本質を表現出来るのであれば、その立体性や構造性は捨ててもいいと思っているように思う。それが思わず触れたくなるような実在性を感じさせる。いや、そんな言葉で語ってはダメだな。好きな女の毛はすごく好きだという、そういう気持ちを想起させるが正解。

「流露」でも書いたけど、女性の性を人形化するのが彫刻の規範であるならば、敢えてこの人が表現する陰毛をみてみたい。それはとんでもないことになるとは思うけれども。

 

いつもながらの放言に終始してしまいましたが、何かあるいは誰かを意図的におとしめるような気持ちは全くありませんので不適切でしたら、ご指摘下さい。即座にエントリーを消すなり、書き換えるなりいたします。どうぞどうぞ素人の世迷い言と思い、ご寛恕くださいますよう。

 

さて、東京での第9回日展は終了してしまいましたが、これから巡回展が主要都市で開催されます。

詳しくは、こちらの日展様のスケジュールをご覧ください。私は一部しか見られませんでしたが、その全てが圧巻、です。

 

また、現在新作に取り組まれている、阿部鉄太郎さんのTwitterはこちらになります。過去作も素晴らしいのでぜひご覧ください。

 

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>

面白かったら!ぽっちとお願いします!

selected entries

categories

archives

recent comment

recommend

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM